2027年、光ミュージアムの企画展
 ※五十三次の浮世絵と同じ場所の現在(写真)を募集いたします。
サンプル画像(現在の写真)とマップ地点は正確ではありません。 
撮影した画像はこちらへ送って下さい。 kawaguchi_y@photo55.jp
(地域 No.と撮影者の氏名、簡単な説明を記入して画像をお送り下さい)
(プリント又はスライドショーで使用しますので、横位置で撮影して下さい)
(画像の補正はこちらで致しますので、少し左右の余裕を取って下さい)
(撮影済みの地区は下の現在写真に仮掲載し、上の番号を暗くしておきます)
始 日本橋 「朝之景」(にほんばし あさのけい)
日本橋川に架かる橋で、江戸から京へ向う東海道の起点。
橋の向こう側に魚河岸があり、こちら側には高札場や刑場がある。高札場とは、 幕府や領主が民衆に周知するため人目につく場所に法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを書いた木の札を掲げた場所のこと。 朝早く江戸を発ち日本橋を渡って国許に向う参勤交代の大名行列と、 魚河岸で仕入れた魚を入れたかごを担いで商いに出かける魚売り(ほてふりという)たちの様子を描いている。 
東京都中央区 現在の日本橋(石造り) Google マップ

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01:品川宿 「日之出」(しながわ ひので)
慶長6年(1601)に設けられた宿場で、「江戸四宿」の一つ。
四宿とは、他に中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿。
早朝江戸を出立し国許へ向う大名行列が、朝焼けの中、品川港の街道沿いに位置する品川宿を通過する様子を描いている。
右手に見えるのは御殿山の山裾。 
東京都品川区 旧東海道の北品川付近  Google マップ

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02:川崎宿 「六郷渡船」(かわさき ろくごうのわたし)
比較的遅い元和 9年(1623)正式な宿駅となり、川崎大師への参拝客で賑わった。
江戸方面からは多摩川(下流を六郷川と呼ぶ)を越えると川崎宿。慶長5年(1600)家康によって六郷大橋が架橋されたが、 貞享5年(1688)の洪水で流失し、それ以来渡船が用いられた。川崎宿方面に向う渡し舟の旅人、 返し舟を待つ武士、荷物を背負った馬、女客を乗せた駕籠など六郷の渡しの様子を描いている。渡し舟の管理小屋に渡し賃を払う男も見える。 
神奈川県川崎市川崎区  Google マップ

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03:神奈川宿 「臺之景」(かながわ だいのけい)
慶長6年(1601)神奈川湊に添って進む街道添いに設けられた(現在の神奈川新町あたり)。宿場に続く台町は、湊の光景が眼下に一望できる風光明媚な場所で、茶屋が立ち並んでいた。 台の茶屋の客引き女が旅人を引き止めたり、 親子連れの巡礼や六部(日本全国66カ国を巡礼して歩く法師)が茶屋前を行く様子を描いている。湊の向うに青黒く見える山のあたりが本牧地域。 
神奈川県横浜市神奈川区  Google マップ

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04:保土ヶ谷宿 「新甼橋」(ほどがや しんまちばし)
慶長6年(1601)に設けられた武蔵国最西端の宿場町。
帷子川に架かる帷子(かたびら)橋(新町橋)を渡ると宿場に入る。橋を渡って宿場に向う虚無僧や駕籠、宿場の前を通る旅人の集団、 二八そばを売る宿場の入り口の茶屋と茶店の女たちなどを描いている。また、左側の田んぼ道を行く子供連れの農婦も小さく見える。 
神奈川県横浜市保土ケ谷区帷子(かたびら川周辺)   Google マップ

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05:戸塚宿 「元町別道」(とつか もとまちべつどう)
相模国の一番目に位置し、日本橋を出立してから一泊目の旅程にあたる宿場で、 東海道五十三次の中でも旅籠数では小田原宿に次ぐ規模であったといわれている。
柏尾川に架かる吉田橋と、そのふもとの茶屋、馬から飛び降りる旅人、 旅の女や老人などの様子が描かれている。橋の向こう側は戸塚宿の旅籠、橋のこちら側の道標に「左りかまくら道」と標されている。 
神奈川県横浜市戸塚区  Google マップ

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06:藤沢宿 「遊行寺」(ふじさわ ゆぎょうじ)
慶長6年(1601)に設けられた宿場で、鎌倉時代から時宗総本山遊行寺の門前町として栄えた。
境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)あたりから見た宿場と、山上の遊行寺を描いている。川の手前に江島神社の一の鳥居があり、ここから江の島に通じる江の島道が分かれる。江の島までは約1里。遊行寺を眺めている江ノ島詣での座頭4人連れ、橋を渡る大きな木刀を担いだ大山詣での職人なども見える。 
神奈川県藤沢市  Google マップ

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07:平塚宿 「縄手道」(ひらつか なわてみち)
相模川にかかる馬入橋(ばにゅうばし)を渡ると平塚宿である。平塚の宿を出て街道を西に向うと正面に高麗山が立ちはだかり、 間もなく花水川に架かる花水橋を渡る。この橋を越えると間もなく次の大磯宿である。縄手道とはたんぼのあぜ道のこと。宿の西出口あたりの街道の様子を描いている。 正面に高麗山、右手に富士山や大山、また前方に花水橋が見える。 
神奈川県平塚市  Google マップ

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08:大磯宿 「虎ヶ雨」(おおいそ とらがあめ)
平塚宿を出て花水橋を渡ると間もなく大磯宿である。
大磯宿は、曽我十郎との恋で有名な虎御前にちなんだ旧跡が多い。大磯宿の東の棒鼻(出入口)付近の様子である。立て札や柵など典型的な宿場の入り口の特徴を示している。 虎御前にちなんだ涙雨の中、旅人たちが棒鼻を通って宿場に向う様子を描いている。右手の山は高麗山、左手の磯は小余綾(こゆるぎ)磯。 
神奈川県中郡大磯町  Google マップ

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09:小田原宿 「酒匂川」(おだわら さかわがわ)
大久保家十一万三千石の城下町で、江戸を発ってから初めての城下町でもある。幕府は、江戸防衛のため酒匂川(さかわがわ)に架橋、渡船を許さず、このため酒匂川を人力で渡らなければならなかった。 蓮台や肩車で酒匂川を越える旅人や人足の様子を描いている。江戸方面から来てこの川を越えると、 小田原宿に入る。険しい箱根山の麓に小田原城や小田原の宿場も見える。 
神奈川県小田原市 小田原城下  Google マップ

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10:箱根宿 「湖水圖」(はこね こすいず)
元和4年(1618)に箱根山の箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置された。 関所は、江戸幕府防衛のため芦ノ湖畔に設けられ、この関所から江戸寄りに古くからの箱根の町である「元箱根」が位置する。 西へ向う大名行列が、芦ノ湖から聳える箱根山の山峡を越して行く様子を描いている。 この険しい峠を越えると、相模国から伊豆国へと至る。 
神奈川県足柄下郡箱根町 芦ノ湖周辺  Google マップ

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 11:三島宿「朝霧」(みしま あさぎり
東海道では伊豆国唯一の宿で、源頼朝が戦勝祈願したことで有名な三島大社の門前町として栄えた。 下田街道や甲州道と交差し、箱根越えの宿場としても大いに賑わい、「三島女郎衆」と呼ばれた宿場女郎、飯盛女が大勢いた。 三島女郎衆は、豊臣秀吉が小田原城攻めに際し兵士慰安のため女たちを三島に集めたことに始まる。 朝霧が立ち込める早朝、箱根越えに向う山駕籠と乗掛の馬が三島大社前を出立し、3人連れの巡礼が西へ旅立つ様子を描いている。
静岡県三島市  Google マップ

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12:沼津宿 「黄昏図」(ぬまず たそがれず)
水野家五万石の城下町。黄瀬川沿いに進み、黄瀬川橋を渡ると沼津宿に入る。 駿河湾に近く、昔はこの辺り一帯に沼地が拡がっていたと言われている。 夕暮れ時、満月の下黄瀬川沿いを沼津宿に向う巡礼の親子連れや 天狗の面を背負って金比羅詣でに行く旅人の様子を描いている。 
静岡県沼津市  Google マップ

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13:原宿 「朝之富士」(はら あさのふじ)
駿河湾沿いの海岸線に位置し、眼前に雄大な富士が聳える風光明媚な宿場であった。 この辺り一帯は、浮島ケ原と呼ばれる沼地が拡がっていた。 上方方面に向う女の旅人とその連れが、富士の姿に感嘆している様子を描いている。 右手に黒く切り立った山は愛鷹山。女性は手にキセルを持っている。 
静岡県沼津市  Google マップ

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14:吉原宿 「左富士」(よしわら ひだりふじ)
2度の大津波の被害を受け宿場を内陸部に移転したため、原宿 から海沿いを通っていた東海道は、 吉原宿の手前で海から離れ内陸部に大きく湾曲していた。このため、それまで右手に見えていた富士が左手に見える景勝地となった。 3人乗りの馬(この乗り方を三宝荒神という)が左富士が見える街道を行く風景を描いている。 
静岡県富士市  Google マップ

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15:蒲原宿 「夜之雪」(かんばら よるのゆき)
駿河湾の海岸線に近く、江戸から来て富士川を舟で渡ったところに位置する宿場で、富士川が川止めになると、 江戸へ向う旅人たちで大いに賑わった。 夜の蒲原宿の雪景色を描いているが、2人連れの旅人はなぜか宿場から離れて富士川方面に向っているように見える。 なお、当時は気候温暖な駿河の地での雪景色もめずらしくはなかったのかもしれない。この絵は、広重の浮世絵の中でも名作とされている。
静岡県静岡市清水区  Google マップ

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16:由井宿 「薩埵嶺」(ゆい さったみね)
駿河湾の海岸沿いにあり、蒲原宿からわずか1里と五十三次の中でも宿場間の距離が最も短い。 海に切り立つ薩(さっ)た峠の断崖近くで、駿河湾越しに雪を抱く霊峰富士の姿を望む旅人の様子を描いている。 富士の下方右手の山が、宝永4年(1707)の大噴火で有名な宝永山。 
静岡県静岡市清水区 薩埵(さった)峠  Google マップ

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17: 興津宿 「興津川」(おきつ おきつがわ)
慶長6年(1601)に設けられた駿河湾沿いの宿で、江戸方面からは徒歩渡りの興津川を越えると宿に入る。 興津宿は風光明媚な松原が広がる清見潟で有名であった。近くには三保の松原もある。 大柄な関取を乗せた駕籠と馬が興津川を渡っている様子を描いている。 
静岡県静岡市清水区  Google マップ

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18:江尻宿 「三保遠望」(えじり みほえんぼう)
駿河湾に注ぐ巴川が造る砂州にできた宿であり、もともとは武田信玄が築城した江尻城の城下町であった。 江戸と大阪を結ぶ廻船ルートであり、三保の松原に囲まれる景勝の地でもあった。 江尻宿の前に広がる駿河湾の景色を描いている。たくさんの漁船が清水湊に係留している。 湊を取り巻くように三保の松原が長く延び、その向うに愛鷹山が見える。 
静岡県静岡市清水区  Google マップ

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19:府中宿 「安部川」(ふちゅう あべかわ)
駿府城の城下町として大変賑わった。府中は駿河国の国府であったことから、駿府とも言われ、 家康の本拠地でもあった。このため、江戸、上方に並ぶ大きな町であった。江戸方面から見て駿府を過ぎたところに安倍川があり、 大井川同様徒歩渡りの川であった。 旅人を蓮台に乗せたり、肩車して安倍川を渡る様子を描いている。 後ろの山は賎機山(ぜにはたやま)。なお、餅を黄な粉にまぶして食べる安倍川餅は家康の時代からこの地の名物であった。 
静岡県静岡市葵区 駿府城下  Google マップ

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20:鞠子(丸子)宿 「名物茶店」(まりこ めいぶつちゃみせ)
東海道中で最も小さい宿場で、名物「とろろ汁」が有名だった。 松尾芭蕉は、ここで「 うめ若菜、丸子の宿のとろろ汁 」と詠み、また十返舎一九は東海道中膝栗毛で鞠子の名物とろろ汁の話を書いている。 茶屋で二人連れの旅人が名物とろろ汁を食べ、赤ん坊をおぶった茶屋の女が茶を運ぶ様子を描いている。 広重は、慶長元年(1596)創業の老舗「丁子屋」をモデルにこの茶屋を描いたといわれているが、丁子屋は現在も存続している。 
静岡県静岡市駿河区 丸子宿にある、とろろ汁の老舗「丁子屋」  Google マップ

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21:岡部(宇都之山/宇津之谷峠) 「宇津之山/宇津之谷峠」(おかべ うつのやま)
岡部宿と隣の鞠子宿との間に宇津ノ谷峠がある。 鞠子宿方面から来た旅人や薪を背負った地元の農民が宇津之谷峠を越えている様子を描いている。 なお、古来宇津ノ谷越えのために「蔦の細道」があり、在原業平や藤原定家など平安時代の多くの歌人がこの細道を歌に詠んでいる。 しかし、豊臣秀吉が小田原攻めのため宇津ノ谷越えをする際に、この細道の北側に新しい道を設け、それ以来蔦の細道は使われなくなった。 
静岡県藤枝市  Google マップ

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22:藤枝宿 「人馬継立」(ふじえだ じんばつぎたて)
本多家四万石 田中城の城下町である。 宿場の問屋場で行われていた宿次を描いている。ここまで荷を担いできた人足や馬子たちが、 ここで次への引継ぎを終え、一息ついている様子を描いている。 
静岡県藤枝市  Google マップ

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23:嶋田宿「大井川駿岸」 (しまだ おおいがわしゅんがん)
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた東海道の難所大井川の東岸側(江戸側)に位置し、 長雨でお伊勢詣りなど上方へ向う旅人が足止めされると大変賑わった。 駿岸とは駿河側を意味する。大名行列の一行が駿河側の岸から大井川を渡ろうとしている様子を描いている。 
静岡県島田市  Google マップ

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24:金谷宿 「大井川遠岸」(かなや おおいがわえんがん)
大井川の西岸側(京都側)に位置し、牧之原台地が迫る狭隘な場所に設置されていた。 東岸側の嶋田宿とは1里の距離で、蒲原-由井間と同様東海道中最短である。金谷宿は島田宿同様、大井川が増水して川止めになると、 江戸方面に向う旅人が足止めされ大いに賑わった。 金谷宿に向う旅人の一行が大井川を遠江側に渡って行く様子を描いている。 向うの牧の原台地 につながる山峡に金谷坂と金谷宿が見える。 
静岡県島田市  Google マップ

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25:日坂(にっさか)宿 「佐夜ノ中山」(にっさか さよのなかやま)
小夜の中山峠の西麓に位置する小規模な宿で、峠越えの宿客のために営まれていた。 小夜の中山峠は、古くから箱根峠や鈴鹿峠と列んで東海道の三大難所(峠)の一つとされ、金谷宿と日坂宿の間にあり、 急峻な坂が続いていた。 日坂宿に向う又旅姿や母子連れの旅人、金谷宿方面に帰る戻り駕籠などの様子を描いている。 道の真ん中に転がっているのは、遠州七不思議のひとつで夜になると泣くという伝説がある夜啼き石。 
静岡県掛川市  Google マップ

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26:掛川宿 「秋葉山遠望」(かけがわ あきばやまえんぼう)
戦国時代の武将山内一豊が大改修したことで有名な掛川城の城下町であり、ここから信濃国へ通じる塩の道が交差していた。 塩の道は、秋葉神社参詣のルートとなっており秋葉街道とも呼ばれ、当時は大変賑わった。 秋葉街道が分岐する塩井川に架かる二瀬川橋より眺めた秋葉山や、 僧侶に頭を下げる老夫婦など参詣者の様子を描いている。田んぼで田植えをする百姓の姿も見える。 
静岡県掛川市 掛川城下  Google マップ

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27:袋井宿 「出茶屋ノ圖」(ふくろい でじゃやのず)
他の宿場より遅れて元和2年(1616)に整備された小さな宿場で、江戸から数えても京から数えても27番目とちょうど中間点にあたる。 遠州三山(法多山尊永寺、万松山可睡斎、医王山油山寺)の宿場町でもあった。 宿場外れの出茶屋で、飛脚や駕籠かきがたばこを吸って休憩している様子を描いている。 遠くに宿場や馬を引く農夫が見える。 
静岡県袋井市  Google マップ

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28:見附宿 「天竜川圖」(てんりゅうがわず)
天竜川の東側(江戸側)に位置し、「見附」という名前は、京から旅してきて初めて富士が見える宿場であったことに由来すると言われている。 天竜川中州を挟んで大天竜と小天竜が流れ、いずれも水深があったため舟渡しが利用されていた。 この図は天竜川の中洲で渡し船の乗り継ぎをしている様子を描いている。なお、見附宿と浜松宿の間、 ちょうど天竜川を越えたあたりが距離的に東海道の中間点である。 
静岡県磐田市 本坂通(姫街道)と分岐  Google マップ

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29:浜松宿 「冬枯ノ圖」(はままつ ふゆがれのず)
浜松藩の居城・浜松城を中心とする城下町で、東海道でも大規模な宿場であった。 上方へ向う旅人は、諏訪湖を源流とする天竜川を越えて浜松宿に入る。 寒々とした冬の田んぼの風景、杉の大木の下でたきびをする農夫たち、 立ち止まってきせるを片手に暖をとる旅人などを描いている。浜松城と浜松宿の家並み、その向うに遠州灘が見える。 
静岡県浜松市中央区 浜松城下   Google マップ

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30:舞坂(現在は舞阪)宿 「今切真景」(まいさか いまぎれしんけい)
浜名湖が遠州灘につながる「今切」の東岸に位置している。 今切とは、明応7年(1498)の大地震で浜名湖の海岸線が切れ、遠州灘とつながってしまったことから付けられた名前で、 ここに「今切の渡し」があった。 今切の渡しを越えると、浜名湖西岸の荒井(現在は新居)宿へ着く。 
静岡県浜松市中央区  Google マップ

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31:荒井(現在は新居)宿 「渡舟ノ圖」(あらい わたしぶねのず)
浜名湖西岸に位置し、今切の渡しにより東岸の舞坂と結ばれている。 江戸に向う大名舟が荒井から今切の渡しを渡り、旅人たちが乗り合い舟で荒井へ向う様子を描いている。 向こう岸に荒井の関所と荒井宿の町並みが見える。船着場が関所になっており、 大名も旅人もここで厳しいチェックを受けたり手続きをしなければならなかった。「入鉄炮に出女」といわれるように、特に女性は厳しく調べられた。 
静岡県湖西市  Google マップ

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32:白須賀宿 「汐見阪圖」(しらすか しおみざかず)
遠江国の最西端に位置し、元々は海岸近くにあったが、宝永4年(1707)の大地震と津波で大きな被害を受け、 その後潮見坂の上の高台に移された。 潮見坂の上方にある白須賀宿を立ち江戸に向う大名行列の一行が潮見坂を下ってゆく様子を描いている。 潮見坂は、東の荒井宿方面に向って下り、遠州灘や沿岸の漁村が見下ろせる絶景のポイントであった。 
静岡県湖西市 潮見坂周辺  Google マップ

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33:二川宿 「猿ヶ馬場」(ふたがわ さるがばば)
三河国最東端に位置し、将軍の天領で慶長6年(1601)の東海道設定当初から設置された小さな宿であった。 白須賀宿を立ち、二川宿に向うところに猿が馬場と言われた荒れた一帯があり、 そこの風景を描いている。二川の名物柏餅を売る茶店や柏餅を買う武士、三味線を持ったごぜの一行などが見える。 
愛知県豊橋市 本陣資料館  Google マップ

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34:吉田宿 「豊川橋」(よしだ とよかわばし)
慶長6年(1601)に設置された宿で、吉田藩・松平家七万石の城下町。湊町(吉田湊)としても栄えた。 街道は、吉田城の総堀に沿って続き、豊川に架かる将軍直轄の天下橋「吉田大橋(現在の豊橋)」を渡る。 当時はこの大橋の袂から伊勢へ行く舟も出ていた。 足場を築き吉田城の櫓を修理している風景や豊川に架かる大橋の眺めを描いている。遠方の山は、砥鹿(とが)神社奥宮の本宮山。 
愛知県豊橋市 吉田城下  Google マップ

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35:御油(ごゆ)宿 「旅人留女」(ごゆ たびびととめおんな)
慶長6年(1601)に設置され、三河国の一番目に位置する宿場である。 御油宿と次の赤坂宿の間には徳川家康が植えさせた松並木が続き、「御油の松並木」として有名である。 夕暮れ迫る御油宿で強引に旅人を誘う客引き女とそれを眺める飯盛り女、 宿にわらじを脱ぐ旅人と脚をゆすぐ桶を運ぶ宿の老婆などの様子を描いている。次の赤坂宿までわずか1.7kmの距離であり、 ぜひ御油に宿泊させようとする客引き女の強引さが面白い。 
愛知県豊川市 本坂通(姫街道)と分岐   Google マップ

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36:赤坂宿 「旅舎招婦ノ圖」(あかさか りょしゃしょうふのず)
御油宿と共に客引き女や飯盛り女を大勢抱えていた宿場であった。 旅籠の様子を描いたものであるが、風呂上りと思われる客、キセルを片手にくつろいでいる客、 食事を運ぶ女、客に呼ばれて来たあんま、右の部屋には客の相手をするために化粧に余念がない飯盛り女たちが描かれていて、 当時の旅籠の様子が窺い知れる。 
愛知県豊川市  Google マップ

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37:藤川宿 「棒鼻ノ圖」(ふじかわ ぼうばなのず)
慶長6年(1601)当初より設置された宿場で、昔から交通の要衝とされていた。 棒鼻とは宿場の出入り口の事で、ここより「何々宿」と書いた棒杭が立てられていた。 この図は、朝廷へ献上する馬を連れた幕府の一行が東棒鼻に入ってきて、宿場役人が土下座をして一行を迎えている様子を描いている。 
愛知県岡崎市  Google マップ
 
飛騨高山のカメラマン      

38:岡崎宿 「矢矧之橋」(おかざき やはぎのはし)
徳川譜代大名本多家五万石の城下町で、家康生誕の地でもあり、大いに栄えた宿場であった。 矢矧(矢作)橋は、矢作川にかかる橋で、徳川時代には日本最長の大橋であった。 この図には、矢作橋を渡る大名行列が描かれているが、橋の向うに岡崎城とその城下町も見える。 なお、この矢作橋は、日吉丸と蜂須賀小六が出会った橋とされている。 
愛知県岡崎市 岡崎城下  Google マップ

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39:池鯉鮒(ちりゅう) 「首夏馬市」(ちりゅう しゅかうまいち)
古来知立神社の神主の氷見氏の居館・知立城を中心とした村落で、三河木綿の集散地としても盛え、 その運搬に馬市が立つようになった。慶長6年(1601)に東海道の宿駅とされた。 知立神社の御手洗池に鯉と鮒が沢山いたことから、それ以前の知立という地名が池鯉鮒に変えられた(現在は元の知立に戻されている)。 この図の題名は「首夏馬市」。宿場の東はずれで毎年首夏(陰暦四月)の二十五日から十日間行われていた馬市の様子を描いている。 
愛知県知立市  Google マップ

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40:鳴海宿 「名物有松絞」(なるみ めいぶつありまつしぼり)
尾張国の2つの宿の一つで、有松絞り(または鳴海絞り)が有名であった。 有松絞りは、紺を使った特有の染め方で浴衣や手拭などに用いられ、尾張藩の特産品と して保護・推奨された。 多くの旅人が故郷へのお土産に買い求め、特に女性に人気で、街道一の名産品として鳴海宿が栄える元にもなった。 夕暮れの鳴海宿を行く女旅人たちを描いているが、女旅人が店に飾られている有松絞りに目を奪われている様子が分かる。 
愛知県名古屋市緑区  Google マップ

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41:宮宿(熱田宿) 「熱田神事」(みや あつたしんじ)
熱田宿ともいい、伊勢神宮に次いで権威ある熱田神宮の門前町、港町として古くから栄え、東海道最大規模の宿場でもあった。 桑名宿とは東海道唯一の海路「七里の渡し」で結ばれていた。 熱田神宮の夜の馬追い神事を描いている。鳴海絞りと思われるおそろいの法被を着た若い衆が馬を追っている。 旅籠の女たちや旅人が、馬追いを見物している。 
愛知県名古屋市熱田区 宮宿 赤本陣南部家跡 七里の渡し船着き場  Google マップ

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42:桑名宿 「七里渡口」(くわな しちりのわたしぐち)
桑名藩・松平家十万石の城下町で、宮宿との間は海上の渡し「七里の渡し」で結ばれていた。 海が荒れると海難事故も多く、東海道の難所の一つとされていた。七里とは、宮宿との距離が7里であったことに由来する。 ここは伊勢参りの東の玄関口でもあった。七里の渡しを越えて桑名港に着いた船が帆を下ろし、 旅人たちが外の景色を見ている様子を描いている。後のお城は桑名城。 
三重県桑名市 (船津屋)  Google マップ

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43:四日市宿 「三重川」(よっかいち みえがわ)
伊勢参宮道への分岐点「日永の追分」を控え、また桑名宿同様宮宿との間に海上の渡し「十里の渡し」もあり、 伊勢参りの客を含めて大変賑わった。三重川(現在の三滝川)に架かる三滝橋を渡り、 三重川の向うに見える四日市宿に向う旅人、このあたりの田園を吹き抜ける強風に笠を飛ばされる旅人の様子を描いている。 
三重県四日市市 三滝橋周辺  Google マップ

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44:石薬師宿 「石藥師寺」(いしやくし いしやくしじ)
古刹・石薬師寺に由来し、元和2年(1616)に宿場となった。 石薬師寺は真言宗の寺で、神亀3年(726)に泰澄が開創し、その後弘仁3年(812)に空海(弘法大師)が開眼法要を行って人々の信仰を集めた。 こ街道の正面に石薬師寺の山門と、背後に続く石薬師宿の家並みを描いている。 
三重県鈴鹿市  Google マップ

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45:庄野宿 「白雨」(しょうの はくう)
寛永元年(1624)東海道五十三次の中でも一番後に設置された宿であった。 急な夕立に遭い、雨宿りする場所もなく、街道を鍬を担いだ百姓や籠やが駆け抜けていく様子を描いており、 広重の浮世絵の中でも名作とされている。 
三重県鈴鹿市  Google マップ

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46:亀山宿 「雪晴」(かめやま ゆきばれ)
石川六万石の城下町で、町の北側丘陵地に亀山城があった。 晴れた朝の雪景色の中を、大名行列が、亀山城のそばを通る急な坂道を上っていく様子を描いている。左下は亀山宿の町並み。 
三重県亀山市 亀山城下  Google マップ

 飛騨高山のカメラマン      

47:関宿 「本陣早立」(せき ほんじんはやだち)
古代から交通の要衝で、壬申の乱の頃には古代三関の一つ「鈴鹿の関」が置かれていた。 宿場の東の追分からは伊勢道、西の追分からは大和道が分岐する活気ある宿場であった。 夏祭りのときに繰り出される山車(山という)は大変立派で、これ以上ないという意味で「関の山」という言葉が生まれたといわれている。 まだ暗い早朝、大名が宿場の本陣を出立する様子を描いている。 
三重県亀山市  Google マップ

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48:坂之下宿 「筆捨嶺」(さかのした ふですてみね)
関宿を過ぎて鈴鹿川に添って進み、鈴鹿峠に差し掛かる大事な地点に設置された宿場であった。 関宿から坂之下宿に向う途中の藤の茶屋から見る筆捨山(ふですてやま:本名は岩松山)は絶景で、 その昔狩野元信があまりの美しさに筆を捨てたことからこの名が付けられたといわれている。 下に鈴鹿川が流れる崖の上の藤の茶屋から、ごつごつした筆捨山を見晴らす旅人たちの様子を描いている。 
三重県亀山市  Google マップ

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49:土山宿 「春之雨」(つちやま はるのあめ)
西に向かう旅人が鈴鹿峠を越え近江国に入ると最初に迎える宿場で、「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と 馬子唄にも謡われるほど雨が多い所である。 雨が降り続く田村神社の前の田村川に架かる田村橋を渡る大名行列を描いている。 なお、古来鈴鹿峠は山賊が多く、この峠で山賊(鬼)を退治したといわれる坂上田村麻呂が田村神社に祀られている。 
滋賀県甲賀市 田村神社  Google マップ

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50:水口宿 「名物干瓢」(みなくち めいぶつかんぴょう)
加藤家三万五千石、水口城の城下町として栄えた。また、伊勢路へ向う人たちが利用する宿場でもあった。 当時多くの農家で干瓢が栽培され、干瓢を干す風景は初夏の水口の風物詩とされていた。 現在でも干瓢がは水口の特産品として親しまれている。 町外れの農村で女性たちが干瓢を削ったり、天日に干したりしている様子を描いている。 
滋賀県甲賀市  Google マップ

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51:石部宿 「目川ノ里」(いしべ めかわのさと)
京から1日の行程にあり、江戸に向う旅人が1日目の宿場とした。また、伊勢路への宿場としても賑わった。 江戸寄りの水口宿との間に立場があり、そこに菜飯に田楽豆腐を出す田楽茶屋があった。この茶屋が黒蜜をかけたところてんの発祥の地である。 目川ノ里はむしろ草津宿に近いが、広重はここに田楽茶屋を描いている。 お伊勢詣での踊る旅人の一団が茶屋の前を通り過ぎようとしている。なお、後に聳えるのは近江富士(三上山)。 
滋賀県湖南市  Google マップ

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52:草津宿 「名物立場」(くさつ めいぶつたてば)
東海道と中仙道の合流地点であった。また、矢橋道への分岐点で、ここに姥が餅屋があった。 矢橋道は琵琶湖対岸の大津宿と結ぶ「矢橋の渡し」への道で、京へ行くには琵琶湖から注ぎ出る唯一の川 「瀬田川」か「矢橋の渡し」を渡るしかなかったが、矢橋の渡しの方が近道であった。 立場とは茶屋などがあり旅人、人足、駕籠などが休む場所。 この図は、旅人で繁盛する姥が餅屋や京へ向う早籠の様子を描いている。右に矢橋道への道標がある。 
滋賀県草津市  Google マップ

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53:大津宿 「走井茶店」(おおつ はしりいちゃみせ)
慶長7年(1602)大津陣屋が置かれて宿場になった。宿場町としてのみならず、 琵琶湖を行きかう物資が集散する港町としても栄え、東海道五十三次の中でも最大の宿場であった。 逢坂の関を越えると山城国に入るが、この入り口に走井があり、泉が湧き出していた。 清水がこんこんと湧き出している泉、この水で喉を潤したり、 名物の走井餅が焼けるのを待つ旅人など、走井茶屋の様子を描いている。走井餅は今も大津の代表的な名菓になっている。 
滋賀県大津市  Google マップ

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到着地「京師」  「三條大橋」(けいし さんじょうおおはし)
江戸からおよそ百二十六里余り、約2週間の旅を終え、三条大橋を渡ると京の都に入る。 鴨川に架かる三条大橋を行き交う人々と、東山三十六峰の山並みを背にした京の町並みを描ている。 東山の後方には比叡山が聳えている。 
京都市 鴨川 三条大橋 東詰  Google マップ


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